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連載全4回のうち第2回目

作成:讃匠 麺研究センター

成功路線は、常に上の目標に挑戦し続ける。現在地に安住しない。 現状に満足するとダメになる-2

目次

3. 徳川家康の話

徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉との違い、 徳川家康ははじめから天下統一を目指したわけではありません。
信長にこき使われ、秀吉の命でその当時、田舎の荒れ地であった関東へ遠ざけられた家康でした。
それでは、この3名の死生観を見ていきます。
信長は、生物は個体単位で消滅するという死生観でした。
信長には、特に好んだ舞と小唄があり、舞は、幸若舞の「敦盛」で、
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」の一節であり、
小唄は、「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」です。
以上を現代風に翻訳すると、人の世の五十年は、下天(宇宙)の一日にすぎない。
夢や幻のように儚いものである。
人は生まれてきた以上は、死ぬ定め。
自分の死後にも語り継がれる為に何をしようか。
何か残すことが出来れば、その「しのび草(生きた証)」をもとに、 後世の人は自分のことを思い出し、語り継いでくれるだろう。

以上の2つの唄から伝わってくるものは、 「人は生きていられる時間は限られている。
だからこそ、後世にまで語り継がれるような、自分の”生きた証”をこの世に残そう。」というものでした。
この織田信長の思い、願いは現代においても、十分に叶っているのです。

秀吉も同様で、秀吉一代のみの夢です。
秀吉は、織田信長に仕え、出世していくのですが、織田信長亡き後も、 戦いに勝ち続け、頭を下げ、最後は無事に天下統一したのです。
天下を取ったにもかかわらず、秀吉には弱点があり、それは世継ぎが安定していないことでした。
最晩年になっても、唯一の嫡男「秀頼(ひでより)」は、当時6歳で、 6歳の子を残して先立つ悔しさは、想像以上だったと思われます。
秀吉の死因は、病死で、慶長3(1598)年3月には盛大な花見を催していたが、 5月には体調が悪化し、8月18日に死去し、あっという間の出来事だったのです。
死ぬまでの僅か数ヵ月、秀吉はこの短い期間で、死後のコトを考えねばならなかったので、 心配の種はというと、ひとえに秀頼に天下人を継がせられるかということでした。
死の2週間ほど前には、五大老に宛てた遺書も書いているのですが、
あれほど権勢を誇っていた秀吉だったのですが、見る影もなく、 ただひたすら、諸大名らに頼むしかなかったのです。
「『秀頼が成人するように、この書付を書いた人々に頼み申す。 何事も、このほかには思い残すこともない。 くれぐれも秀頼のこと頼み申す。五人の方々にお頼みする。 くわしいことは五奉行に申し渡した。 名残惜しいことだ』と繰り返し懇願した」
(若林利光著『戦国武将の病が歴史を動かした』より一部抜粋)
五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景のちに上杉景勝)と 五奉行(前田玄以、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家)は起請文を交換。
成人後の秀頼が政権を掌握できるように尽力するとの誓約もなされたという。
死の数日前には、枕元に徳川家康ら五大老を呼んで、秀頼のことを頼むとさらなる念押し。
こうして、秀吉は無念のうちに御年62歳でこの世を去ったのです。
じつは、秀吉にも先見の明があり、自分の死後、秀頼が成人するまでは徳川家康が統治するのですが、 しかし、家康の力が莫大になり過ぎる可能性も考えていたようで、秀吉はそこまで天下にこだわらず、 万が一、天下人から下ることになっても、豊臣家存続さえできればいいと思っていたのです。
「天下はみな自然と徳川殿の家風にしたがってしまうであろう。
そのとき、なまじっかわしの旧恩を思う者が、幼少の秀頼を輔佐して天下を取ろうと謀り、 徳川殿と合戦をするようなことになれば、わが豊臣の家はおのずと滅びること、きわめて近き将来にある。
その方らが、もしわが家が絶えないうちにと思うなら、心して徳川殿によくしたがい仕え、 秀頼のことを悪く思われぬように計ってくれ。
そうすればわが家も絶えずにすむかもしれぬ」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

以上のような2人の先輩たちとは異なり、 家康は自分が死んだあとも、徳川の世が続くことを望んでいたのです。
信長と秀吉は、自分の考えで、いかに人を動かせるかと、常に命がけでした。
しかし、家康はそうではありませんでした。
家の永続と、誰もが棲み分けによって生きていける世の中を作ろうとしていました。
個人の夢の為に、戦う世の中を変えたのが家康なのです。
徳川家康が天下統一できた理由は諸説ありますが、 その理由が明確に断言できる出来事として、 一般的には関ヶ原の戦い(1600年)での勝利が挙げられます。
ちなみに、この戦いに勝利した際の家康の年齢は、数え年で58歳でした。
健康オタクだったことは、のちほど詳しくお話ししますが、 健康に執着していたことも理由の1つでしょう。

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